宮本(田原)伊織

宮本(田原)伊織

伊織は慶長十七年米田村の田原甚兵衛久光の二男として生まれました。十六歳の時明石藩小笠原忠政の近習として仕え、この時小笠原候に召し抱えられていた剣豪として広く知られる宮本武蔵と出会い、器量が優れていたことから武蔵の養子となりました。後に若干二十才で豊前小倉藩の家老にまで出世し、知行二千石、後に四千石まで加増され、生まれ故郷である米田村を含む十七ケ村を氏子とする泊神社の本殿など主要な建物を再建し、米田天神社の社を建立されました。

泊神社に残された棟札がありますが、それは伊織が自らの一族の経歴と社殿再建の趣意を表白したものです。伊織は赤松氏の流れを汲む田原久光の子でしたが、武蔵の養子となり、主君明石藩小笠原候の移封に従って豊前小倉に移り住んだことなどが書かれています。
(高砂市史より)

宮本武蔵

宮本武蔵

剣豪として広く知られる武蔵ですが、出生については未だ謎が多く残されています。自ら記した兵法書 「五輪書」には、生国播磨と記しています。武蔵は正保二年(1645)五月十九日に肥後国熊本で没し当時六十二才であったと考えられています。

十八世紀中頃に米田の隣村である平津村の平野庸脩が編んだ「播磨鑑」には、「宮本武蔵、揖東郡鵤ノ邉宮本村ノ産也」と明記しされています。また安永五年(1776没後131年)に豊田景英が著した「二天記」には、宮本武蔵の伝記で播磨生まれである事が記されています。「二天記」は武蔵の晩年の弟子たちから聞き覚書をはじめとする史料をわかりやすくまとめたものです。

さらに文化十二年(1815没後170年)に津山藩士が著した作州東部六郡の地誌「東作誌」には、武蔵が作州宮本村の平田無二の子であると記されています。また、伊織の子孫である豊前小倉の宮本家の系図を基にしたものも残されています。この系図は十九世紀中頃に作成されたと考えられるもので、これによれば武蔵と伊織は伯父甥の間柄になっています。

このように、「五輪書」や「二天記」という武蔵に近い年代の史料では播磨生まれと記され、史料の成立時期を考えると、武蔵の没後80年くらいに記し始めた「播磨鑑」の記事にも注目できます。
(高砂市史より)

工楽松右衛門

工楽松右衛門

わが国の帆布製造の始祖として知られる初代工楽松右衛門は、寛保3年(1743年)高砂町東宮町に生まれました。従来の帆布に改良を加え、厚地大幅物の帆布の織り上げに成功、「松右衛門帆」と呼ばれて全国の帆船に用いられるようになりました。また、幕府の命を受けて千島の択捉島に埠頭を築くなど優れた築港技術者として活躍しました。彼の功績を称え、高砂神社の境内には銅像が建てられています。

美濃部達吉

美濃部達吉

明治6年(1873年)高砂町に生まれました。幼少のころより神童と呼ばれ、東京帝国大学法学部を卒業後、東大教授として憲法を講じています。その後、達吉の論じた「天皇機関説」が問題となり、著書「憲法撮要」などが発売中止となり、その後、公職を退かざるを得なくなりました。しかし、敗戦後、憲法改正の際には顧問として活躍し、新憲法の研究を重ね、次々と著書を執筆しました。

天竺徳兵衛

天竺徳兵衛

慶長17年(1612年)高砂町船頭町に生まれました。京都の豪商角倉與市の船頭前橋清兵衛の書役としてシャム(タイ)にわたるなど交易に従事しました。徳兵衛はこの間の体験を見聞記にまとめました。この話はやがて歌舞伎の題材になり、ことに四世・鶴屋南北の「天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)」は大当たりをとりました。高砂町横町の善立寺にその墓が残っています。

山片蟠桃

山片蟠桃

13歳で大阪に出て両替商升屋平右衛門に仕え、主人が亡くなると幼主を支えて仙台藩の蔵元として藩財政を立て直したほか、多くの大名貸しをつとめる大商人となりました。また、生来の学問好きで、晩年に大作「夢の代」を著しました。同書で蟠桃の合理主義的な思想は今なお高い評価を受けています。

佐々木すぐる

佐々木すぐる

私たちに馴染みの深い童謡「月の砂漠」や「お山の杉の子」「青い鳥」を作曲した佐々木すぐるは、明治25年(1892年)阿弥陀町魚橋に生まれました。作曲のほか、青い鳥児童合唱団を主宰するなど一生を音楽活動に捧げ、その功績には特筆するものがあります。阿弥陀町魚橋の正蓮寺には森繁久弥氏の筆の顕彰碑が建立されています。

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